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新潟白菊会「献体25年」

 

新潟白菊会

 

新潟における人体解剖の歴史をふり返ると最初の解剖は天保3(1832)年に長岡藩で新川順庵医師が行なう。山脇東洋の解剖、宝暦4(1754)年の約80年後。また最初の篤志献体は医専創設の明治43(1910)年で高澤圓榮という僧侶の献体である。美幾女の篤志献体、明治2(1869)年から約40年遅れ。そして献体運動としての始まりは、故諸橋幸一支部長を中心に数名の有志の活動が昭和47(1972)年6月18日、白菊会支部として約80名で発足した時である。さらに昭和51年に新潟大学白菊会と改め、昭和52年6月5日に新潟白菊会として独立する。東大で生まれた白菊会昭和30(1955)年に遅れること約20年。それぞれの新紀元を画するような出来事の時間的“差”の推移や短縮から教えられることも多い。
初代故諸橋理事長の時代は独特の辻説法方式による個人的努力と個性的魅力に強く支えられて進んだといえる。平成8(1996)年6月、新潟白菊会の集いは第25回という大きな節目を迎えて、その歩みを確かめ考えてみたい。
新潟日報に代表されるマスコミは発足時より熱心に報道支援してくれた。10周年、献体法など折々に応じて大きく取り上げてくれると同時に、しばしばコラム欄でも機微にふれた献体の話題を書いてくれた。ある年には記事が出たあと120通以上の電話と手紙にうれしい悲鳴をあげた。15周年(昭和61年)の時にはテレビ出演(BSNテレビサロン)の機会もあり、爽やかな献体のこころを伝えた。
このようないわば情報、資料作戦は会としても積極的に進めた。年1回の「会報しらぎく」も内容(集いの報告、全連だより、大学通信、会員からの献体のこころや追想文)を盛り沢山にした。前述のマスコミなどに登場した記事のまとめ「最近の新聞から」、学生の手記による「解剖学実習を終えて」、具体的Q/Aのパンフなどを各種発行した。役場、医師会、病院など多方面の協力も得て、広く「献体の考え」の流布、啓蒙に努めることができた。58年献体法成立の時は、日報の社説にも取り上げられるに至り、より質の高いものを目指すことができた。59年には明るい年齢を越えた人の輪を伝える主旨で新ポスターも制作した。
登録会員の構成をみると、平成に入ると大正生まれにピークが移動してきて、明治、昭和生まれがほぼ同数となっている。夫婦揃っての会員が約150組の多くに及んでいることは、献体の受け止め方について心強いものを感ずる。また毎年の集いでは懇談に力を注いでいるが参加者が多いこと、会報への投稿が多い点も広く開かれた力を感じさせる。
長岡市の地下水融雪装置にちなんで「絶えずゆっくり地道に」、杉田玄白の解体新書、蘭学事始めにあやかって「一滴の油から静かに広がる献体の輪」、臓器移植と脳死の話題に関連して「解剖体が不足だから、献体運動ではナイ」など、献体の精神や歴史を再認識し、初心と原点を忘れずに進みたい。
(理事長 熊木克治)

 

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